The Road to DAZAIFU ~大宰府への道~

2007年04月06日

太宰府防御ネットワーク その2 決戦の場・大野城

1 眼下の太宰府

 九州を守る長大な防壁だった水城の一端は、山の稜線とつながる。今は「四王寺県民の森」の名前で福岡県民にはおなじみの四王寺山だ。
 四王寺山のひらけた山頂は、広大な自然公園となって、福岡県民の憩いの場となっている。その大部分が、特別史跡・大野城と重なっている。
 麓から眺めても分かりにくいが、四王寺山頂の地形は特徴的だ。中央部分が浅くくぼんでいて、浅い皿をのせたような形をしている。皿の縁の南側に立つと、大宰府政庁から福岡平野、天候に恵まれるときらきら輝く玄界灘も見渡せる。その光景の中に、暖流のような深みのあるブルーの屋根に気づくことだろう。それが九州国立博物館である。

四王寺山頂上の大野城地図

四王寺山頂上の大野城地図

こののどかな光景が、大野城が守るべきものであった。
 大野城は太宰府の背後にある大野山(通称四王寺山、古代には大野山と呼ばれた)に築かれた朝鮮式山城で、日本書紀によると665年に完成した。7世紀初頭、中国大陸に唐という超大国が誕生し、アジア各方面へ影響力を強めていた。朝鮮半島では、新羅(しらぎ)が唐と結び、高句麗(こうくり)と百済(くだら)の2国を圧迫した。朝廷は、660年に領土を失った百済の残党とともに軍を派遣するが、唐・新羅連合軍に敗北(663年白村江の戦い)。時の天智天皇は大陸からの侵略に備え、水城をはじめ多くの防衛拠点を築く。
 北部九州から瀬戸内にかけて多くの山城が築かれた。太宰府を起点として、都を中心に幾重にも巡らせた防衛線の中で、大野城はきわめて重要なポイントだった

2 長大な石垣と土塁

 大野城の築城には、憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくふ)という、二人の亡命百済人が登場する。設計士と現場監督をかねたような立場だったのだろうか。彼ら二人が築いたとされる大野城と基山城は、同年代の朝鮮半島に見られる山城と形状に共通点が多く、それゆえに「朝鮮式」という。

そびえるような百間石垣

そびえるような百間石垣

主城原など建物の礎石が残る

主城原など建物の礎石が残る

大野城の全容はこうだ。
 まず、周囲を土塁でぐるりと囲む。“皿の縁”の地形を活かしながら、手薄なところを人工の土塁で補強する。土塁の長さは総延長6・5kmで、標高は350〜410m(山頂)。
 深い谷や河川は、より頑丈な石垣で塞がれた。遺跡として保存され、今日でも見学できるのは大石垣・小石垣・北石垣・水の手石垣(大宰府口城門跡)、百間石垣など。最も大規模なものは長さ180mもある“百間石垣”。川を横切るように組み上げられた花崗岩の壁は、反り返って見上げるほどだ。
 土塁の内側には、7つのエリアに、約70もの建物礎石も見つかった。食物や武器の貯蔵庫のほか役所風の建物もあったと考えられている。大宰府の役所機能丸ごと、つまり街全体で立て籠る、最終決戦の要塞だったのだ。

 史跡南側の焼米ヶ原(大野城市)で、緩やかな傾斜の土塁の内側と、外側の切り立った断崖の対比がよく分かる。土塁の上に立ち見下ろすと足がすくむほど。この城を攻めるのは容易なことではないな、と実感できることだろう。土塁の構造が復元されているので、ぜひ見ていただきたい。
 土塁の尾根の部分は、そのまま道として、四王寺山頂周遊コースとなる。
 土塁の中はけもの道のような小道が縦横に走り、建造物礎石群のある“主城原礎石群”や“村上礎石群”をつないでいる。うっそうとした木立の中は、野鳥や野の花の宝庫。紅葉も冬枯れの風情も味わい深く、年間通じて心地よいトレッキングコース。
 大野城の南北には自動車道(四王寺林道)が通り、焼米ヶ原(大野城市)や県民の森センター(宇美町)には駐車場もある。が、西鉄太宰府駅から徒歩30分ほどで到着する。林道を使う場合は、軽装でも十分。九州国立博物館観覧や太宰府天満宮参拝のあと、ぜひチャレンジしてほしい。

3 その後の大野城

 大陸からの圧力がなくなり、防衛拠点としての大野城は早々に役割を終えていたが、城の倉庫には兵糧を備蓄する制度は残った。それも9世紀半ばには廃止された。しかし、大野山は平安京の起点とされた畝傍山(うねびやま)と同じように、大宰府の象徴として愛された。いにしえにおいては、愛するということは「和歌に詠む」ということ。例えば万葉歌人として高名な山上憶良は、大宰府に役人として赴任したことがあり、
 大野山霧立ち渡るわが嘆く 息嘯(おきそ)の風に霧立ち渡る
という歌を残している。水城や大野城は、歌枕になった。太宰府を中心とした筑紫を歌った和歌は万葉集に300余首が収録されている。古代の人々の和歌に託した思いは、今日太宰府を中心にとして数多く建立された万葉句碑を感じ取ることが出来そうだ。
 太宰府といえば天満宮、学問の神様・菅公(菅原道真)を思い起こす方が多いだろう。だが万葉集が編まれたのは、901年管公が大宰府へ赴任する100年ほど前。このような土壌の上に、学問の神様が祀られるようになったのだ。

 さて、なぜ大野山が、四王寺山という愛称になったかご存知だろうか? 奈良時代に大野山の山頂に、四王院(四王寺)という寺院が建造され、仏教信仰の聖地として栄えた。10世紀には「四王寺山」という名称が書物に表れているので、その頃には定着していたのだろう。
 山頂には増長天、持国天、広目天、という地名が残り、四王寺山で最も標高が高い大城山には、毘沙門天の社がある。1月3日には「毘沙門天詣り」というお祭りがあり、お賽銭を拝借して翌年倍にして返せば、お金には困らなくなる、と言い伝えられている。

 土塁に沿って歩くと、磨崖仏が祀られていることにも気づくだろう。1800年頃に博多の国松市三郎が、四王寺中腹の岩屋城合戦で散った将兵を慰霊するために築いたといわれる。岩屋城合戦とは1586年、大友家の高橋紹運ら700名が、5万といわれる島津軍の猛攻に半月間耐えた末、全員が討ち死にするという壮絶な合戦。事実上、島津の九州制覇を阻んだ戦いだ。
 四王寺山中腹の岩屋城址には「嗚呼壮烈岩屋城址」と刻まれた石碑と紹運の墓が残されている。この合戦は、千年前に防衛拠点として目をつけた、古代の人々の戦略眼を証明したことになる。

 戦略拠点から信仰の山。そして憩いの場へ。大野城のある四王寺山は姿を変えながらも、ずっと愛され続けている。(文責 高野龍也)

素朴な石仏が四王寺山に点在する

素朴な石仏が四王寺山に点在する

岩屋城址は展望公園になっている

岩屋城址は展望公園になっている

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