The Road to DAZAIFU ~大宰府への道~

2007年10月12日

太宰府防御ネットワーク その3 有明方面の要・基肄城

1 太宰府・南の備え

 7世紀後半に水城や大野城と同時期に建設された基肄城(きいじょう)は、基山(佐賀県基山町)にその名残がある。基山とは、坊住山(西峰)、北峰、東峰とそれをつなぐ稜線で形成された山々の総称で、町名は“きやま”だが、地元では“きざん”と呼ばれている。
 現在、坊住山付近には駐車場が完備され、マイカーで登ることができる。駐車場のすぐ目の前は、急勾配。野の草が茂る急斜面は、青空をバックに見上げるほどの緑の壁で、斜面を利用して草スキー場では子どもたちの歓声が響いている。
 草そりを引いて登るのも一苦労いったこの斜面こそが、基山に築かれた基肄城の土塁の跡である。

鉄壁を期して建設された基肄城だが、いまや憩いの場だ

鉄壁を期して建設された基肄城だが、いまや憩いの場だ

中国大陸を中心とした東アジア情勢の変化が、基肄城誕生の背景となった。7世紀初頭に中原を制した唐帝国の出現で、朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅の三国鼎立が崩れて唐と同盟した新羅による統一が実現した。大和朝廷は、友好国の百済が滅亡した事で緩衝材がなくなり、膨張する唐の圧力を直に受けることとなった。それを回避するために軍を起こしたが(白村江の戦い:663年)、朝廷軍は唐新羅連合軍に大敗した。
 列島防衛のため、特に最前線となることが予測された北部九州に厚い防御陣地を築いた。それが水城であり大野城であった。博多湾を上陸し、福岡平野を攻め上げる軍を迎え撃つ北の抑えである。一方基肄城は、有明海や唐津湾などに上陸し、筑紫平野方面へ侵攻してくる軍勢への南の備えとされた。

 現在。基山付近は、JR鹿児島本線、国道3号線、九州自動車道が通り、九州を縦断する“背骨”が集中する。地形を見れば、山地に挟まれた細長い平野が太宰府方面から伸びていて、福岡平野と筑紫平野を結んでいる。九州自動車道は鳥栖ジャンクションで、大分自動車道・長崎自動車道に分岐されていることからも分かるように、この一帯は九州各地へ連絡する交通の要衝なのだ。
 水城大野城と基肄城は、単独で機能する防衛拠点であると同時に、北部九州全体を視野に入れた防衛線としても構想されたのであろう。水城・大野城、基肄城と小水城(JR基山駅付近にある防塁跡)と山々および平野部全体が巨大な“城”であったのだ。

2 史跡・基肄城を歩く。

 基肄城は、7世紀後半当時の最新テクノロジーで建造された朝鮮式山城である。山の地形を活かしつつ、土塁や石塁で補強する設計思想は大野城と同じだ。現在は、史跡基肄城跡として遊歩道が完備され、その様子を散策しながら見て歩くことができる。
 西峰(坊住山)、北峰、東峰を結んだ土塁が現在稜線となっている。南側は深い谷で切れ込み、一部が欠けた器のような地形をしている。土塁線は約4.3キロで囲まれ、その外側は全面が険しい“城壁”だ。草スキー場がもっともその様子を見て取れるが、他のところは木々が茂っていて想像することは難しい。土塁の内側は、建物の礎石群が30ヶ所ぐらい以上も点在し、登山道・遊歩道が縫うように走っている。東、西、北の各峰は土塁線で結ばれ、現在でもこの土塁線の大部分を歩くことができる。現在の遊歩道は、基肄城内の連絡通路をほぼなぞっていると考えてもいい。

 坊住山付近は史跡公園として整備され、草スキー場の他にも展望台や休憩所が設置されている。基肄城建設を決めた天智天皇を記念した、鉾(古代の武器)をかたどった記念碑「天智天皇欽仰碑」(1932年建立)もある。「いものがんぎ」と通称される遺構があるが、これは中世から戦国時代の“基山城”の名残といえる。
 天気がいいときは、この展望台から北側に太宰府が、南側に有明海が見渡せる。開放感を感じさせるこの風景も、基肄城に駐屯した古代の防人たちは、もっと張りつめた心境で眺めていたことだろう。

大正時代建立の天智天皇欽仰碑

大正時代建立の天智天皇欽仰碑

谷川を通すために築かれた水門

谷川を通すために築かれた水門

 谷となった南側には石塁が築かれていた。今も谷を流れる筒川の水を通すための水門(長さ9.5メートル、高さ1.4メートル、幅1メートル)が残る。現在は長さ26メートルほどの石塁が残っているが、これはほんの一部でしかない。この付近には南門があったが、川の流れで破壊されたという。
 水門付近は、基山登山道の起点ともいえる場所で、JR基山駅から歩く場合は、水門を目指せば坊住山への最短ルートとなる。基肄城に駐屯する兵士(防人)は、普段はふもとのJR基山駅付近に詰めていたとされ、現在の登山道とほぼ同じ道を踏んで、城内の担当部署へ向かったのだろう。古代と現代を結ぶ道でもある。

3 霊山としての基山

 坊住山の山頂に、大きな石がある。石の前には祭壇が築かれ、熱心に拝んでいる人の姿も見える。この石はタマタマ石(玉々石、霊々石とも書く)と呼ばれ、ふもとにある荒穂神社のご神体とされてきた。その後、同じく基山ふもとにある寺院の修行の場とされ、今日も祈願の対象として祀られている。基山は霊山でもあるのだ。

 基山には数々の伝説がある。

荒穂神社のご祭神は五十猛神(いそたけるのかみ)という神様だが、この神様が高天原から木々の種を持って下界に下りてきた。初めて木々の種をまいたのが、この基山付近だというのである。基山は古文献には「木の山」と書かれることもあった。豊かな緑に囲まれた山だと古くから親しまれてきたのだろう。別の伝説では、木の山に悪神が住み着き、この山の付近の道を通る旅人を片っ端から取って食らっていたが、五十猛神がこの悪神をやっつけて安心な山になったという。この伝説は、古くから基山付近が交通の要衝であったことを物語っている。

タマタマ石は古神道でいう磐座(いわくら:自然石や山は神様が宿る場所と考えること)だとされている。古くから神様として信仰されていた山に、基肄城が間借りした格好になるのだろう。
 唐も新羅も攻めて来ず、基肄城も結局は主目的としては使われないまま平安時代半ばに廃止された。中世から戦国時代の戦乱の時代には、交通の要衝だけに基山は豪族たちの争奪戦が繰り広げられた。荒穂神社は、もともとタマタマ石付近にあったというが、戦国時代に焼失し、現在地へ移ったという。
 基肄城も建設から千年を経た。今や基山は、心の平安を願う人々が集い、家族連れなどが憩う場所になった。
 こののどかな風景だけは、これからも変わらずにいてほしい。
(文責 高野龍也)

基山信仰の象徴タマタマ石

基山信仰の象徴タマタマ石

今も鎮守として祀られる荒穂神社

今も鎮守として祀られる荒穂神社

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