The Road to DAZAIFU ~大宰府への道~

2008年12月16日

歴史の道・時の扉 かげろうの古代日向 その4(宮崎県南郷村)

4.霧の向こうの百済の里

●百済伝説
 古代日向の中心都市西都市から、北西へ上ること車で90分。標高1000mを超える山村に突如、大陸風というか、明らかに和風ではない建物が現れる。
 宮崎県美郷町南郷地区の「百済の館」だ。百済の古都扶余にあった宮殿を模した古代建築は、旧南郷村と扶余との姉妹都市調印を記念して建てられた交流施設である。
 なぜ、ここに? という疑問を抱きつつ車を降りると、もっと仰天するだろう。歴史の教科書で誰もが見た「正倉院」がそこにある! 百済の王族の住む宮殿と、皇室の宝物を保管する倉庫。ここに両者が建てられたきっかけは、1300年以上前のある事件までさかのぼらなければならない。

正倉院は思った以上に巨大だ

正倉院は思った以上に巨大だ

 7世紀初頭、中国大陸に唐帝国が勃興すると東アジアの均衡は崩れる。唐は明らかに拡大志向が強かった。当時、朝鮮半島は高句麗・新羅・百済の三国鼎立時代だった。百済は畿内政権と親密で、文化交流も盛んだった。ところが660年、新羅が唐と結んだことにより百済は400年余りの歴史を閉じる。百済の王族・貴族の祖国回復運動を、畿内政権は兵を派遣して助けた。これが世にいう白村江の戦い(663年)で、倭国・百済連合軍は唐・新羅連合軍に惨敗する。
 この敗戦はさまざまな影響を列島各地にもたらした。のちに遠の朝廷(とおのみかど)と称された大宰府は、唐の侵攻を仮想して誕生した前線基地だった。
 百済から列島に多くの亡命者がやってきたこともあり、東大寺建立に協力するなど、文化や政治に影響を与えるなど、百済系の人々が“日本史”を形成するのに大きな役割を果たした。

 ところが南郷地区には、これとは別の百済人の“その後”が描かれている。
 百済から難を逃れてきた人々は安芸の厳島に上陸し、畿内にコミュニティを作った。が、大和政権の動乱に巻き込まれて、畿内を脱出し筑紫の地を目指した。が、瀬戸内海でシケに遭い、百済王族の禎嘉王(ていかおう)は金ヶ浜(日向市)、息子・福智王(ふくちおう)は蚊口浦(高鍋町)に漂着。その後、禎嘉王は美郷町南郷区へ、福智王は木城町に定住することとなった。
 父子はそれぞれの地で亡くなり、神として祀られる。南郷区の神門(みかど)神社の祭神は禎嘉王(ていかおう)である。一方息子の福智王(ふくちおう)は木城町比木神社に祀られた。引き離された父子の魂は毎年12月に行われる「師走祭り」で、再会する。千年以上も続く祭りであるという。
 百済伝説が残る神門神社のかたわらに、百済の館と西の正倉院が建造されたのは突飛な発想ではない。千年を超えて、地域に伝承した物語や信心を、平成の時代に立体化させたものだ。

●奉納された銅鏡
 神門神社には伝説ばかりではなく、多くの宝物も残されていた。銅鏡三十三面、馬鈴、馬鐸(ばたく)、鉄剣、師走祭りに用いられる銅矛1006本など。特に銅鏡は、逸品が多い。唐花六花鏡は、本家正倉院と同一品。ただし正倉院蔵のものは東大寺大仏殿から出土した品で、神門神社蔵のそれは大切に保管された伝世品。そのほかの鏡も、巨大寺院跡や皇族の屋敷跡から発掘された貴重な品が多い。

銅鏡の価値はいずれも高い

銅鏡の価値はいずれも高い

神門神社の本殿も重要文化財

神門神社の本殿も重要文化財

 正倉院と同じ銅鏡があるのならば、正倉院に修めたい。と「西の正倉院」造りプロジェクトが発足した。普通なら「こんな無謀なことを」と腰が引けてしまうような企てだが、果敢にチャレンジ。宮内庁門外不出とされた正倉院の図面を借り受けることに成功した。当時の田原正人南郷村村長の真剣な思いが伝わり「あくまでも学術目的である」という判断だったという。材質、工法など奈良正倉院を忠実に再現し“本物”が建設される運びとなった。
 中は資料館になっていて、銅鏡24面や正倉院の構造、師走祭りの様子などが展示されている。風雪を耐えた風情は本家正倉院にはかなわないが、現在まで非公開とされている内部構造を見学できるほか、奈良時代の建築技術で加工された材木の質感に触れることができるのは、西の正倉院ならではの“特典”だろう。
 また、神門神社の宝物調査のために、当時の南郷村は扶余に調査団も派遣した。その縁が扶余との姉妹都市締結に結びついた。現在も百済との縁は続いている。
 歴史が続いていれば、交流の輪も途切れるものではない。

●百済と日向の関係
 神門神社の縁起では禎嘉王は筑紫に向かう途中、瀬戸内海で海難に遭い日向に漂着した、とある。が、本当は日向の地を目指していたのではないだろうかと、考えられなくもない。古墳時代以前の土器の形式は、南九州は百済系の影響が強かったということを、西都原考古博物館で教えていただいた。
 北部九州では新羅系の土器が多く出土していることを合わせると、日向と百済には独自の交易ルートがあったのではないだろうか。  畿内の動乱を避けるため脱出した禎嘉王は、落ち着いて暮らせる安住の地を望んだはずだ。だとしたら、古くから密接なつながりのある日向地方に向かった可能性はなきにしもあらず。
 それにしても、百済王を祀る神社がミカドというのは、これもまた日本史を揺るがすような暗号なのかもしれない。

 南郷区は時折深い霧に包まれる。古代史の深層も深いベールに隠されたままだ。

 日向地方を中心とした南九州の古代は、神話の世界の合間から歴史という“この世”が立ち上り始めている。神話や伝説は決して史実ではないかもしれないが、地元の方々が伝えてきた時間や思いはきっと“本物”だと思う。宮崎で見る歴史風景が独特で印象的なのは、語り継ぐ人々の息吹が宿っているからだろう。(文責 高野龍也)

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