The Road to DAZAIFU ~大宰府への道~

2009年08月06日

歴史の道・時の扉 人と神仏がともに暮らす緑の里 宇佐・国東 その1(大分県宇佐市)

1.神仏習合の発祥宇佐神宮を歩く

 宇佐鳥居は仁王立ちしていた。
 笠木と横木(島木)が反り返り、巨大な台石が地面に踏ん張っている大鳥居はあでやかな朱色で、その姿は力強い。
 国が天然記念物に指定した社叢(しゃそう)の木々は、鳥居よりも背が高く、奔放に枝をのばして参道に木陰を縁取っていた。
 宇佐神宮のご神域に入って数歩、というところで「格別な神社だ」と感じることだろう。
 神社の鳥居が「仁王立ち」とは、奇異な表現と感じられるかもしれないが、こと宇佐から国東半島にかけては、鳥居は堂々と屹立(きつりつ)している。

 古くから江戸時代まで、日本では神と仏を同時にあるいは同列に、祀ることが一般的だった。日本の神祇信仰と仏教の融合を意味する「神仏習合」は列島各地で続いた信仰形態で、平たく言えば日本人的な「信心」のカタチである。

 神仏習合は九州や北陸などの地方から7世紀の終わりごろからはじまったようだが、豊前の宇佐・国東でいち早く習合し、体系化されていったとされている。
 宇佐・国東は、現代日本人にも通底する「神仏を尊ぶ」精神の故郷であり、現存する寺社や史跡はその原風景でもある。
 宇佐鳥居は時と空間を超えて日本人を心の故郷へいざなうゲートウェイなのである。

周囲を圧倒する宇佐鳥居

周囲を圧倒する宇佐鳥居

優美な曲線を描く呉橋

優美な曲線を描く呉橋

宇佐神宮は、全国4万社といわれる八幡宮の総本宮である。分霊数は、稲荷神社についで2番目に多いというのが一般的な見解だが、神の分類の仕方によっては、もっとも多いという説もある。いずれにせよ、私たちにとっては身近に接する機会が多い神さまといえるだろう。

 全国で尊崇される神さまの本宮は、境内すべてが国指定史跡であり、見るべきところは多い。一つ一つを紹介していたら、いくらスペースがあっても足りない。今回は、本稿のテーマと関連あるものをピックアップしてご紹介する。

 仁王立ちする宇佐鳥居にも特徴がある。
 一般的に鳥居には、社名が刻まれた扁額が掲げられているものだが、この大鳥居にはない。扁額が掲げられていない鳥居の代表格は伊勢神宮である。宇佐神宮は伊勢神宮に次いで、皇室の第二の宗廟(そうびょう)とされる聖地だとされている。扁額がないのは、名を掲げるまでもない別格のお宮であることを物語っている。実際に京都に石清水八幡宮が勧請されるまで、宇佐神宮は単に「八幡宮」と称されていた。

 また鳥居上部の横木(島木)と柱の結合部が、黒い台輪で結ばれているのも特徴的だ。境内をご案内いただいた「宇佐神宮・国東半島を世界遺産にする会」の永岡惠一郎会長は「よその神社では黒い輪(台輪)をあまり見たことがない。素人の観測ですが、神仏習合であることを示す印ではないか」と見立ててくださった。
 そもそも鳥居はなぜあの形になったのか? 実は定説はない。試しにご近所の神社に参拝して神官の方に尋ねてみると、「はっきりとは分かりませんが…」という前置きがあって、諸説を説明されることになる。諸説とは、次のようなものがあげられる
1) 天岩戸に隠れた天照大神を岩戸から呼び出すために、鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を置いたことが起源という説。
2)インドの仏教のトラナ(門)や中国の中国の華表(標柱)、朝鮮の紅箭門(こうぜんもん)といった外国を起源とする説。
2)の外国起源とする説をとると、鳥居自体が列島の民族宗教と外国の信仰が習合して誕生したものだということになる。鳥居が出現したのは8世紀ごろだという。そのころから、神仏習合がすすめられた宇佐にあっては、2つの輪は、神と仏が結ばれたエンゲージリングなのだ。

 境内への入り口といえば「呉橋(くればし)」も見学してみてはいかがだろうか。寄藻川(よりもがわ)に架かる木造屋根付の廊下橋だ。八幡宮と同じ朱色の橋は、中国の人(呉人)によって架けられたとされ、鎌倉時代にはすでにあった。現在の橋は、1622年(元和8年)に熊本藩主細川忠利に修築されたもので、過去2回の大改修で当時の面影をたもっている。
 現在は10年に一度訪れる宇佐使(勅使=ちょくし)のみが通行する、普段は開かず橋である。また、昭和の初めまでは呉橋のある西参道が表参道だった。“勅使街道”と通称されるこの参道沿いに、宇佐神宮創建と同時に建立された弥勒寺の伽藍(がらん)があった。
 現在の参道から少し離れているため、見過ごす人も多いようだが、皇室や宮廷との関連を示す史跡なので、ぜひご覧いただきたい。

●神宮に残る神仏習合の痕跡
 境内は広大だが、実際に歩いていると空間的な広さを感じない。社叢(しゃそう)の枝が参道にアーチをかけ、アーケードのように茂っているところもある。緑の回廊を抜けて西大門をくぐると、緑の天蓋が消えて頭上がスコーンと抜ける。目の前には、壮麗な社殿。宇佐神宮の上宮だ。

 上宮には国宝の本殿がある。建築様式は、石清水八幡宮など数社しか類例がない八幡造という形式で、切妻造平入の建物が前後にあり、両殿の間に馬道が通る。屋根は桧皮葺(ひわだぶき)で、二棟の軒が接するところに大きな金の雨樋が渡されている。
 本殿の前には拝所となる壮麗な楼門があって、全景を眺めることは難しい。が、楼門の隙間から角度を変えてつぶさに眺めると、八幡造の特徴を確認することができる。丹塗りの社殿に白壁、苔むした桧皮などの色彩も美しい。

 楼門の中央に立つと、向かって左から一之御殿、二之御殿、三之御殿と並ぶ。一之御殿から三之御殿は横一列に並び、祭神は一之御殿から順に八幡大神(応神天皇)、比売大神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命=宗像三神)、神功皇后(息長帯姫命)。
 実はこの御殿の並びそのものに大きな謎があり、比売大神は日本古代史最大の謎とされる邪馬台国の巫女王(ふじょおう)卑弥呼のことではないか? という説もある。宇佐神宮は卑弥呼の墓所であり、宇佐一帯が邪馬台国の中心地であった可能性が指摘されている。

参拝客は勅使門から祈願する

参拝客は勅使門から祈願する

八幡造の構造が分かる模型

八幡造の構造が分かる模型

参拝の作法も一般的な「二拝二拍手一拝」ではなく「二拝四拍手一拝」であることも特筆すべき点だ。この拝礼作法は出雲大社と宇佐神宮でしか行われていない。
 拝礼法の意味は伝わっていない。
 四拍手は「死拍手」のことで、荒ぶる神を鎮めるために打つという、という説もある。大和政権成立の過程で、出雲地方の王権が征服された。その時に倒された王族が出雲系の神々であり、彼らを鎮魂するための儀式だという。出雲系の神々には「死拍手」の意味は分かるが、宇佐神宮は、第二の宗廟と呼ばれるほど皇室に崇敬されている。荒魂(あらたま)を鎮めるわけではないから、不思議だ。

 魏志倭人伝には、「見大人所敬 但搏手以當脆拝」、つまり貴人に対して拍手を打つ風習があることが記されている。柏手を多く打つのは、それほど尊いという意味があるのではないか。
 また神殿の中心(第二殿)に鎮座するのは、比売大神である。由緒では、比売大神は宗像女神とされているが、元来は謎の女神だった。  宇佐は邪馬台国の比定地でもあることから想像を広げると、比売大神は卑弥呼のことで、四拍手の礼拝法は弥生時代から続く風習なのではないか、とも感じられる。

 神宮寺の弥勒寺は、明治の廃仏毀釈で取り壊され、今は礎石のみ残っている。神仏習合時代でも社地に神宮寺と神社が並立した例はない。礎石から弥勒寺は奈良・薬師寺式の伽藍配置であり、法隆寺系の瓦なども出土。ヤマト王権の中心地で用いられた最新技術が用いられたことは、古代宇佐がいかに先進地域だったかということを物語っている。

 弥勒寺は、神社を運営する寺院である神宮寺(神護寺、別当寺)の最初とされ、伝承によると725年に建立され、738年に現在地へ移された。弥勒寺には各地から仏法を学ぶ僧が集まり、後の六郷満山文化が花開くもととなった。

 宇佐神宮境内やご神体ともいうべき御許山(おもとさん)など広大な神域すべてが国指定の史跡だ。紹介しきれなかった国宝や文化財なども多い。文化財のデータは宇佐神宮のホームページや「宇佐神宮・国東半島を世界遺産にする会」ホームページを予習すれば見逃さずにすむだろう。また、イチガイシなど常緑樹が残る社叢に漂う空気もさわやか。じっくり歩いて、九州を代表する“聖地”を体感してみてはいかがだろうか。

宇佐神宮境内案内

宇佐神宮境内案内

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