The Road to DAZAIFU ~大宰府への道~

2012年09月28日

歴史の道・時の扉 隼人たちが駆けた海原・薩摩半島南部 その1(鹿児島県南さつま市坊津

1.黒潮が結ぶ交流の歴史

 東は錦江湾、西海岸と南岸は東シナ海に臨む薩摩半島。日本三大砂丘の一つ、吹上浜。円錐形の山容から薩摩富士の美称で親しまれる開聞岳。砂蒸し風呂で高名なリゾート地指宿など、九州新幹線開通とともに、薩摩半島南部には雄大な自然に触れようと、多くの観光客が訪れている。
 カツオやキビナゴなどの海の幸に舌鼓を打ち、南国らしい風景に満足して帰る…、だけではこの地の魅力を満喫した、とは言えないかもしれない。

 この地域は、縄文時代でももっとも古い草創期の土器が出土した志風頭遺跡(南さつま市加世田)、弥生時代の遺跡から薩南諸島や琉球諸島との交流を物語る装身具「貝輪」などが出土するなど、太古から人々が生活を営み、近世にいたるまで南方諸島や大陸と交流し続けてきた。

 今回は、戒壇院など奈良時代に花開いた太宰府仏教文化とゆかりが深い、鑑真が入港した坊津(南さつま市)を皮切りに、古代の薩摩隼人から近世まで、黒潮の流れにのった千年以上も続く薩摩半島南部の「交流の航跡」をたどってみたい。

鑑真和上像と遠望する秋目浦

鑑真和上像と遠望する秋目浦

鑑真和上像と鑑真記念館

鑑真和上像と鑑真記念館

●鑑真初上陸の地・坊津

 天平勝宝5年(753年)師走、リアス式海岸特有の風光明媚で水面が静かな秋目浦入り江に、一艘の船が入港した。
 暴風雨に遭い、航行するのがやっとというほどに傷んでいたその船は第10回の遣唐使船。当時の日本にとっての「至宝」を積んでいた。
 その宝とは、唐きっての高僧・鑑真である。彼の「戒律」の知識と経験は奈良の朝廷がずっと求め続けていたものだった。

 鑑真の来歴はご存じの方も多いだろう。
 「戒律を授けられる高僧を招きたい」という日本の希望に応え、自ら渡海を決意。
 天候不順や唐の役人の妨害などで、5度失敗。失明するなどの苦難を経て、約10年間6度目の渡海で、日本へ上陸した不屈の僧侶だ。

 戒律というのは、仏教の僧侶が守るべき道徳規範や規律といった意味で、戒律を授ける(授戒)とは、僧侶が戒律を身につけたことが認定される儀式のことだ。

 「正式な授戒の方法を導入したい」というのは、平城京を造営した聖武天皇が発願した国家事業である。鑑真招聘にいたる時代背景は、大宰府政庁の発展と無関係ではない。

●大宰府の変遷〜前線基地から政治文化の中心地へ〜

 大宰府の成立に関しては、これまでも触れてきたが、簡単に振り返っておきたい。

 唐・新羅連合軍と、日本・百済の遺臣が半島で激突した白村江の戦い(663年)で日本軍は敗北した。
 中大兄皇子(後の天智天皇)は、大帝国からの侵攻に備え、西日本各地に山城や砦を築き、防衛ラインを張った。水城や大野城はこの時に造られ、その中心部に前進基地を母体に、行政機構が整備され、大宰府政庁が成立する。
 中大兄皇子がしたたかだったのは、国を固めつつも外交交渉を行なっていたことだ。
 白村江の戦いから2年後の665年には、遣唐使を派遣している。天智天皇在位時には3回遣唐使が派遣されたが、いずれも白村江戦後交渉が目的だといわれている。

 粘り強い交渉と、唐と新羅の同盟関係がギクシャクしたこともあり、一触即発の緊張は緩和された。後に天智天皇が崩御されると、古代最大の内乱と言われる壬申の乱(672年)が勃発。天智天皇の第一子大友皇子と、天智天皇の弟である大海人皇子が皇位を争った、古代最大の内乱である。大海人皇子がこの乱を制し、天武天皇として即位すると国内政治の立て直しがはじまった。
 天武天皇が国づくりの参考にしたのは、唐の政治制度である律令体制だった。

 大宝律令の制定(701年)、本格的な都城である藤原京の造営など、先駆的な試みがなされた白鳳時代を経て、平城京への遷都(710年)。本格的な律令政治と豪華絢爛な天平文化が花開く。

 奈良時代は、かなり大まかに要約すると律令制度と仏教文化で国づくりをした時代だ。
 東大寺大仏殿の造営や全国に国分寺を造営するなど、寺院の建設ラッシュ。しかし、寺院建設は単なる公共事業ではなかった。

 寺院は宗教施設であり、現代でいう大学のような高等教育機関でもあったのは知られているが、郵便や金融などのネットワークを担っていたのはご存知だろうか。

 中国からインドにかけ、シルクロードなどの交易路には仏教寺院が点在していた。寺院では手紙や手形などを取り扱い、国を超えたネットワークを形成していた。

 遣唐使では僧侶が留学し、大陸の進んだ文化を吸収し、時には外交も行なっていた。受戒した正式な僧侶がこのような役割を担うほうが有利なことは、明らかだろう。
 戒壇(受戒する場)を設けることは、国内の仏教文化の質を上げることはもちろん、古代日本の国際化にも重要な意味があったことは、想像に難くない。

 鑑真は、753年12月20日に坊津へ上陸したあと、12月26日に大宰府で日本初の授戒の儀式を行った。鑑真御一行は、翌年正月には平城京に到着し、聖武上皇、孝謙天皇から僧侶、尼僧にいたるまで400人に受戒する。

 その後は教科書でも紹介されているように、東大寺(奈良)、下野薬師寺(栃木)、観世音寺(太宰府市)に「天下三戒壇」を開いた。また、唐招提寺を開山し、日本における律宗の祖に。また、薬草や彫刻にも造詣が深く、医学や仏教美術の発展にも大きな足跡を残した。

 大宰府政庁は西日本一帯の行政・防衛などを所管するようになった。大宰少弐(大宰府の高官)だった藤原広嗣が反乱を起こすと(740年)、その権勢を怖れた朝廷は大宰府をいったん廃止した。行政面は筑紫国司が、軍事は新たに設置した鎮西府が担当していたが、745年に復活。中央政府に警戒され、力を削がれた大宰府は鑑真来日前は存在感がとても薄くなっていた。
 746年、80年もの歳月をかけて建設された観世音寺が開山し、戒壇院が設置されると多くの学僧が集まるようになった。優秀な人材が集まると、その場所は活性化する。平安時代には、外交権など権限が強化され、かつて「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれたほどの勢いがよみがえる。
 遣唐使船の廃止(894年)により、大宰府の力が弱まるが、廃止した菅原道真公を祀る天満宮により、現在の太宰府市が繁栄しているのは、ちょっとした歴史のパラドックスだ。

 古代日本のみならず、日本史における鑑真の影響力を考えると、坊津秋目に刻んだ最初の第一歩の場は、もっと広く知られていてもいいと思う。

●鑑真記念館と007記念碑

 ずいぶんと前置きが長くなったが、鑑真上陸は古代日本のエポックメーキングな事件の一つだった。
 ということを思い浮かべつつ、坊津秋目を訪れてみると、目の前の風景がぐっと趣深いものになるだろう。

 坊津秋目はリアス式海岸の入り江で、巨岩奇岩にぐるりと囲まれ、風よけ、波よけにピッタリな良港のよう。
 この入り江を見下ろす高台に、「鑑真和上像」「鑑真上陸記念碑」「鑑真記念館」がある。

 「記念碑」は昭和41(1966)年に建立され、さらに平成4(1992)年に「記念館」が建設された。だんだんと、鑑真上陸を顕彰しようという動きが具体化されていったのがわかる。

 「記念館」では、鑑真の来歴と日本渡航を描いた絵巻物「東征伝絵巻」(奈良・唐招提寺蔵)のパネルや中国で造られた鑑真和上坐像のレプリカなどが展示される。館内をしっかり見学すると、鑑真の日本渡航までの足跡が理解できるようになっている。

鑑真記念館の展示

鑑真記念館の展示

007のロケ地としても有名

007のロケ地としても有名

 鑑真は来訪を待ちこがれていた聖武上皇のもとに駆けつけねばならず、秋目には数日しか滞在しなかったとされているが、長年の苦労の末目的を果たし、短い期間ながらこの地を愛し、リラックスをしたのではないだろうか。

 鑑真像と並び、当時の秋目浦をしのんでいると「これからやるぞ!」という勇気が沸き上がってくるかのような感慨を覚えた。

 さて、鑑真記念館のそばには、「007」のおなじみのロゴが彫られた石碑がある。
 007シリーズ第11作目「007は二度死ぬ」(1967年公開)の撮影がここ坊津で行われた。撮影は奇しくも、鑑真上陸記念碑が建立された1966年。秋目浦には、世界で最も有名な(?)スパイも上陸したのだ。

 記念碑にはジェームズ・ボンド役のショーン・コネリー、出演の丹波哲郎らのサインが刻まれている。007シリーズを見たことがある人にも、おすすめのスポットだ。

 鑑真が坊津に入港したのは、偶然ではない。
 黒潮の流れと、入り組んだ入江が天然の良港となり、古代から交易港として栄えていた。
 中国の明代に記された「武備志」という書物にも、博多津(現福岡市)、安濃津(現三重県津市)とともに「日本三津」として紹介されており、近世にいたるまで重要な港として知られていたことがうかがえる。
 そもそも「坊津」の「坊」とはお坊さんの坊であり、鑑真入港以前より仏教文化が根付いていた場所で、その史跡も残されている。  次回は、交易港としての坊津の歴史を、景勝地とともに紹介したい。

(2.坊津の交流史 へ続く)

 鑑真記念館
 開館時間 9:30~16:30
 休館日 月曜日(祝日の場合は翌日)
 入館料 高校生以上 200円 小・中学生100円
 住所 〒898-0212 鹿児島県南さつま市坊津町秋目225-2

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