2006年7月18日
九州路
学問の神様・天神様とは、菅原道真公その人である。
今日の太宰府の姿は、菅公がこの地に流され、終焉の地となったことから始まるのである。
菅公は死後「天満大自在天神」の神号を贈られ、神様となった最初の日本人といわれる。天神様を 祀る天満宮・天神は全国一万二千社を超え、信仰は今なお篤い。だが、人間・菅原道真の姿は、あまり知られていない。
菅原道真公が大宰府へ下ることになったのは、ライバルである藤原時平との政争に敗れたからだ。
「右大臣はクーデターをくわだてている」。身に覚えがない罪を着せられた菅公の嘆きのほどは、想像を絶するものであった。
菅公は延喜元年(901)梅御殿を辞し、大宰権帥(だざいごんのそち)として西都・大宰府へと旅立った。わずかな供と京都から大阪を経て、瀬戸内の泊を飛び石づたいにしゅくしゅくと下っていく。
普段は絶対にお目にかかるはずがない雲上人は、庶民の目にどのように映ったのだろう。外聞もはばからず嘆き悲しむ貴人の姿に、深い同情と強い驚きを覚えたに違いない。菅公が立ち寄った場所では、あまりに人間くさい姿が、そのまま伝説として残されている。
福岡県には数多く菅公伝説の地があるが、今回はその中でも興味深い場所をピックアップしてみた。
九州の第一歩 ~綱敷天満宮(福岡県椎田町)~
大宰府へ向かう菅公ご一行は瀬戸内を航行中、暴風に遭う。風雨を避けるために上陸したのがこの椎田の浜。図らずも、九州上陸第一歩となった。
急で予定外の貴人の来着である。満足におもてなしするすべもない。
ぼう然と立ちつくす菅公に、漁師が舟の纜(ともづな)を巻いて「しとね(ざぶとんのようなもの)」替わりに座っていただいた。ああ、おかわいさうに。おともの人々は、涙を流した。菅公はこの漁村で数日休まれ、旅立った。
955年神託があり、社が造営された。この伝説をもとに、天神を祀る「綱敷天満宮」と命名されたという。別名「浜の宮」の境内には梅が千本植えられ、毎年「梅祭り」が開催される2月には、さわやかな梅の香が漂う。参道には露天が並び、早春を愛でる人が多く訪れる。
梅の時期が過ぎれば、天満宮前に広がる「浜の宮海水浴場」に人が集まってくる。3~5月は潮干狩りに、夏休みは海水浴客でにぎわう。この海岸で採れるアサリは「椎田あさり」といわれ立派なブランドとなっている。
つかの間の休息を得た菅公の、心づくしのプレゼントかもしれない。
※「綱敷」の伝説は、神戸市須磨区や福岡市博多区にもあり、それぞれゆかりの天満宮、天神が残されている。
綱敷天満宮参道
綱敷天満宮本殿
街をつくった天神 ~水鏡神社(水鏡天満宮・福岡市中央区)~
袖の湊(博多港)に達した菅公一行は、船を乗り換え四十川(現薬院新川)を上る。
今泉という村の付近で菅公は、川面に映った自分の姿に目を疑った。長旅でやつれ果てた顔…。哀しみをますます深くせられたという。
その後、今泉には社殿が建てられ「水鏡天神」「容見天神(すがたみてんじん)」と呼ばれるようになったという。
1612年筑前五十二万石に封じられた黒田長政により、水鏡天神は中央区天神一丁目の現在地へと移築遷座された。一説によると、福岡城建築の際に城の鬼門となる方角に強力なパワーを持つ天神を配し、霊的な防御をかためたという。風水的な町づくりである。以来、この界隈は「天神町(てんじんのちょう)」と呼ばれるようになった。 九州一の繁華街・天神の始まりである。
オフィスビルが林立するど真ん中にある境内に足を運ぶと、都心の喧噪から解き放たれ、神聖な空気が漂っているのを感じるだろう。見上げると、空が高い。400年近くもこの町を見守ってきた天神様は、今も静かにたたずんでいる。
水鏡天満宮にお参りしたら、参道横の「天満宮横丁」へ。老舗ラーメン店からおしゃれなレストランバーが、長屋のように建ち並んでいる。
時の流れが止まったかのような不思議な感覚とともに、福岡・天神を味わってほしい。
水鏡天満宮
天満宮横丁
無事に帰れの祈念をささぐ ~立帰(たちかえり)天神・福岡市中央区西公園~
黒田長政公を祀った光雲(てるも)神社のすぐそばに、立帰天神という小さなお社がある。桜の名所としても知られる西公園内といった方が分かりやすいかもしれない。
大宰府へ向かう途中、道に迷ったため、従者の味酒安行が荒津の山に登り方角を確かめたという言い伝えが残されている。ご神体は、菅公自ら彫った自画像で、もとは武蔵寺にあったが後にこの地に移された。
“無事に立ち帰る”という名前の縁起の良さで、漁業関係者からの尊崇は篤い。また、戦時中は出征する兵士や家族の参拝も多かったという。境内へ下っていって参拝するのは全国でも珍しいという。
社務所で販売されているカエルの縁起物は、新一年生となったお子さんへのお祝いにもぴったりだ。
立帰天満宮
菅公が座られた腰掛石 ~少童神社・福岡市早良区室見~
藤原時平が放った刺客を避けるために、大きく西へ迂回して大宰府へ入った。そんな伝説もある。
その伝説を裏付けるかのように、天神社が早良区にも点在する。少童神社の腰掛石もその一つだ。近くには塩田もあり、 一泊された菅公に村人が塩を献上し、大いに喜ばれたという話も残されている。
境内には地元公民館があり地域の活動が盛ん。菅公は今も石に座って暖かい目で見守られているのかもしれない。
腰掛石
菅公とその母、正室の人形を祀る ~北山神社・福岡市早良区板屋~
背振山山頂にほど近い、意外な場所にも菅公は立ち寄られたようだ。
小笠原峠を越えているとき、刺客の不穏な気配を感じた一行は、奥深い山村へと逃げ難を逃れた。かくまわれた農家は雨漏りがひどく、持っていた戸板を屋根に乗せてしのいだことから板屋の地名の由来になったという。
厳しい逃避行のさなか、菅公は幼子を村人にあずけ真子と名乗らせた。この真子の子孫が奉納したと伝えられる菅公とその母、正室をかたどった木像二対六体が、北山神社に祀られている。
社殿はちいさな祠程度の大きさで、ちょっと入り組んだ場所にある。地図にも載っていないため、初めて訪れる場合は地元の人に道を尋ねた方が無難だろう。
木像
北山神社中
個人宅にある天神さま ~杖立天神・大野城市山田~
一行が御笠川のほとりを歩いているとき、前方に御笠の森が見えた。菅公は、森の中で杖を立てて休息を取った。その場所に祠を建て、杖立天神とした。
御笠川は氾濫し、村の移転とともに現在地へと移ったという。
今は、個人宅の中にあり勝手に見学することはできない。ご主人の話によると「昔は集落全体でお守りしていた神社だったというが区画整理で我が家に落ち着かれた。 杖立と聞いてましたが、ご神体は杖伐(つえきり)でしたなぁ」。菅公が愛した梅の花に囲まれ、心静かに休まれている姿が目に浮かぶようだった。
杖立天神
旅の果てに…
大変な苦難を越え、菅公は大宰府へたどりつく。
菅公はあずまやでのわびしい暮らし。天拝山での祈り。都を出て二年後の 延喜三年(903)、無念の思いに打ちひしがれながら亡くなった。
その後、怨霊と恐れられ生前の名誉回復がなされるとともに、天神信仰が広がっていく。
だが、本当に嘆き悲しみながらこの世を去ったのだろうか? 怨霊になるほどの恨み辛みを死後も持っていたのだろうか?
菅公は生前、死んでも京へは戻らないと宣言した。
実際に菅公の遺体を乗せ都へ向かった牛車は、四堂という土地にさしかかると動かなくなり、仕方なくその場所に埋葬した。ここが現在の太宰府天満宮である。
旅は辛いと感じられただろうが、その分人々の優しさにも出会ったはずだ。筑紫国の山河は荒れた心を慰めてくれた。と、信じたい。愛着があればこそ、この地に留まりたいとおっしゃったのだ。
福岡に残る菅公伝説は、地元民との心のつながりの証として、ずっと語り継がれてきた。
(文責 高野龍也)
●高野龍也
1971年福岡市生まれ。フリーライター兼プランナー。新聞、雑誌、広報誌などで記事を書くほか、文化施設の展示企画などにも参加。
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