The Road to DAZAIFU ~大宰府への道~

2006年10月23日

太宰府防御ネットワーク その1 太宰府の玄関・水城

1 千三百年の壁

 平野を横切るように、こんもりとした森が一直線に走る。高台から見下ろせば、九州自動車道やバイパスに、緑のラインがクロスする。
 この“こんもり”が、国特別指定史跡の水城跡である。
 福岡平野の南、丘陵が南北からせまり平野が最も狭いところに、フタをするように築かれた1.2キロの城壁。県道112号線沿いにある東門の展望所からじゃ少し分かりにくい。が、664年に建造された史跡の規模はなかなかのものだ。
 この巨大な建造物を過ぎれば、大宰府である。

尾根の間にふたをするように築かれた水城

尾根の間にふたをするように築かれた水城

福岡側(海側)から見た水城

福岡側(海側)から見た水城

水城は7世紀後半、アジアの緊張から誕生した。
 中国大陸では、数世紀ぶりに隋、そして唐という大帝国が出現した。軍事的にも文化的にも東アジアのバランスが崩壊する。
 朝鮮半島では新羅と唐が連合し、百済を滅ぼした。百済の遺臣が日本にいた百済の皇太子をかつぎ朝廷と連合を組んで、唐・新羅連合軍と相対した。いわゆる白村江の戦い(663年)である。日本百済連合軍は大敗し、半島における新羅優位は決定的となり、後に唐とともに高句麗も滅ぼして半島統一を果たした。
 「唐という巨大な津波が日本海を渡って襲ってくるに違いない」。
 時の天智天皇は、脅威にそなえ水城の建造に取りかかるとともに、西日本各地に朝鮮式山城も造った。さらに、北部九州沿岸には防人(さきもり)を置き、とうとう都を琵琶湖畔の大津に遷した(667年)。まさに国を挙げての大騒動だった。

2太宰府の原点

 「水城はダムのように水を溜め、ここぞという時には堰を切って水で敵を押し流す」。
 水城の使い方として、こんな説が主流だった時期があった。実際は、高さ9メートルほどの高さの土塁を築き、両側に掘を作って水を張った。掘りの大きさは、太宰府側が約50m、博多湾側が約60m。飛び道具が弓矢の時代では、十分な防御能力があったはずだ。でも、何を必死に守らなければならなかったんだろう。

 筑紫は金印も出土したように、太古から現在まで大陸との関係が強い土地柄である。
 「日本書紀」によると大和朝廷は6世紀から、九州の政治的・軍事的支配の拠点として、また外交の窓口として「那津官家(なのつのみやけ)」という出先機関(福岡市博多区比恵付近)を北九州に置いていた。那津官家の後には、九州を治める役人の職として「筑紫大宰(つくしだざい)」の名が記録に登場。筑紫大宰が管理していた組織=後の大宰府政庁だとすると、平時にはとても便利だが緊迫した情勢では危険だ。

水城周辺マップ

水城周辺マップ

3,太宰府歴史四本の柱

 大宰府史跡解説員の完戸鷯(かんと・りょう)さんにお話をうかがった。完戸さんによるとこの水城、地勢上にも歴史的にも、太宰府のはじまりに深い関連があるという。
 「太宰府の古代史には四つの柱があるんです。一本目の柱が、水城と大野城の成立です。水城が太宰府の原点ですよ」と完戸さん。完戸さんは、大宝律令などの成立などから、九州・日本を防衛する水城・大野城が完成してから役所が移転してきたと考えている。
 役所と水城はセットで計画されたという説。もともと重要な場所だった(役所などがあった)から、水城を造ったという説。さらには太宰府が首都だったとする九州王朝説まで、さまざまな説が入り乱れている“ミステリースポット”なのだ。

 やや細かな話になるが、大宰府の名前が文献に初めて登場するのは、日本書紀天智天皇(671年ごろ)の項目である。仮にこの年に大宰府が完成したとしても水城建造から7年しか経っていない。大宰府政庁と水城はセットと考えても問題なさそうだし、そもそもどんな説の立場でも西都大宰府は防御ネットワークの中で発展した事実は否定できない。
水城は、太宰府史のぶっとい柱であることに変わりはない。
 ちなみに、二本目の柱は大宰府政庁の発展。三本目は、観世音寺や戒壇院といった仏教史跡。四本目は太宰府天満宮の成立と発展。水城から天満宮まで向かう道順に並んでいる。

4 水城のある田園風景

 結局、唐と新羅は攻めてこなかった。その後も、本来の防衛設備という目的で水城が使われることは一度もなかった。
 ただ元寇・文永の役(1274年)の時だけは、危うく戦場になりかけた。少なくとも、迎撃する鎌倉武士団軍は大宰府での決戦を覚悟した。
 元軍はそれまで博多を壊滅させるほど大暴れ。日本軍は博多から撤退し、大宰府に籠城する苦戦を強いられた。見たこともない武器と戦法に苦しめられた鎌倉武士は、悲壮な気分で立て籠もったことだろう。だが、いわゆる“神風”が吹き、一夜にして元軍は博多湾から消え失せた。

 水城は、数百年かけてクスノキなどが密生する雑木林に“成長”した。高速道路や鉄道が遺跡を横切るように走るが、それでものんびりとした田園風景のイメージが強い。晩秋には、水城を取り囲むようにコスモスが咲き乱れ、ちょっとした秋の名物になっているという。
 田園にとけ込んだ水城の風景は、千年を超える太宰府の歴史そのものを映している。

問い合わせ、 太宰府市地域振興部 観光課  電話092(921)2121 太宰府市宰府3-2-3 太宰府市地域活性化複合施設「太宰府館」
(文責 高野龍也) 

コスモスのピンクと水城の森の緑が鮮やかな秋の風景

コスモスのピンクと水城の森の緑が鮮やかな秋の風景

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