2008年02月25日
1 歴史のベールに包まれた長門城
7世紀、東アジアに激震が起こった。大陸を統一した唐帝国が、朝鮮半島の新羅と結び三国鼎立の半島の勢力図を塗り替えようと軍を興したためだ。新羅よりも強国で飛鳥(奈良)の政権と友好的だった百済が660年に滅ぼされる。亡国の遺民は時の天智天皇に百済復興を呼びかけると、天智帝はそれに応え、東アジアにおけるプレゼンスを確保すべく軍勢を半島に送った。これが世に言う白村江の戦い(663年)である。結果は周知の通り、大敗である。
唐・新羅連合軍が我が領土に攻め寄せてくるかもしれない。天智帝は国内の防備を固めるべく、列島を改造した。大陸に近い九州では、沿岸部にあった宮宅などの行政・外交施設を内陸に移し、水城・大野城・基肄城が建設された。後に遠朝廷(とおのみかど)と呼ばれる大宰府政庁の礎ともなる大工事である。ほぼ同じくして、九州の隣国長門(現山口県)にも長門城(ながとのき)が築かれた。今日も下関港からは韓国への定期航路があるほど、長門と韓半島は身近で、奈良の王権も北九州に次いで重要な場所として早い時期に国府を置いていた。長門城は、筑紫のそれと同じく最前線に位置しているといっても過言ではない。
長門国は、王権のある近畿への大動脈・瀬戸内海への入口でもある。長門国と筑紫国に挟まれた関門海峡は、動脈へいたる“長き門”である。長門国は、北部九州にあった外交の拠点守備のネットワークにも、瀬戸内海から近畿にいたる防御のネットワークにも属する、極めて戦略的なポイントであることは間違いないだろう。
長門城の推定地はこれだけある
ところがこの長門城、どこに築かれたのか定かではない。諸説はあるがいずれも決め手に欠け、定説がないのが現状である。決定打がないのは、例えば大野城や基肄城と似た形式の遺構が見つかっていないためである。今まで見つからないのはもともと造られていないのではないか、という説もあるほどなのだ。
逆に言えば決め手がない分、推定地を空想する楽しみがある。千年を超える時空に思い馳せながら下関市をドライブ、散策するのも一興だろう。
長門城の所在地として唱えられている山と地域を分別すると、およそ次の3つに分けられるようだ。
(1) 下関市長府の大唐櫃(おおかろうと)山・茶臼山説
(2) 関門海峡を望む火の山説
(3) 響灘を望む鬼ケ城山・竜王山説
(1)の大唐櫃山(141.1m)・茶臼山説(96.0m)は長門国府に最も近い、というのが説の根拠となっている。長府とは長門国府が縮まった地名。両山は城下町長府の背後に隆起して、周防灘を見下ろしている。いざという時は、軍勢が駆け下っても、あるいは国府の機能を移して篭城するにも有利な立地である。太宰府における大野城的な立地を想定すると分かりやすい。
長州藩士で明治時代に300巻を超える「山口県風土誌」を完成した近藤清石氏は「かろうと」とは韓人、つまり朝鮮式山城を築城した百済遺民を意味するという説を表した。一時は定説として確定的な空気が漂ったほどだが、この二山は大規模な宅地開発がなされる。その時に石組みの遺構が出てきたらしいのだが、充分な調査は行われなかったという。今さら住宅地を掘り起こして調査するわけにもいかず、その時の石の遺構も行方しれず。真相を正すチャンスが再び得るのは難しそうだ。長府方面では、四王司・勝山も長府に近いという立地から、候補地に名前が挙げられる場合もある。
2 戦略性がポイントか?
国府に近いという地理上の観点ではなく、より広い戦略性で価値がある。そういう観点で有力視されているのが(2)の火の山と(3)の鬼ケ城山と竜王山だろう。
火の山(268m)は今日、関門海峡を見下ろす景勝地として人気が高い。眼下に関門橋を望み、狭い海峡を往航する船影の数は「運河」を思い起こさせる。関門の夜景ビュースポットとして、火の山公園は花見スポットとして年中観光客が絶えない。が、第二次世界大戦が終了するまでは民間人の立ち入りが禁止されていた。軍事要塞だったからである。
火の山は、関門両岸に築かれた通称下関要塞群の一つとしてコンクリートで固められ、砲台が築かれた。時に1890(明23)年。関門という“長き門”の門番という意味では、7世紀に築城された長門城と目的は変わらない。そもそも「火の山」の由来も、古代に狼煙台があったことからという説もある。
火の山の直下は、源平合戦で有名な「壇ノ浦」だ。壇ノ浦とはもともと団ノ浦と書いたが、団とは奈良時代に設置された、防人(さきもり)豊浦団。彼らの宿営地があったことに関連する地名でもあるのだ。時代は下り、戦国時代には大内、毛利の出城があったとも。さらに幕末には長州藩が壇ノ浦砲台を設置、海峡を航行する外国船を攻撃する攘夷戦を行った。
見晴らしもよい。壇ノ浦から和布刈までは、もっとも両岸迫る早鞆の瀬戸。要するに、関門海峡を通行する敵を叩くのに最適な場所なのだ。奈良時代から近代までそう考えられたのならば、7世紀にも同じように考えられなかったわけがない。
火の山説は御薗生翁甫氏ら郷土史家に示された。残念ながら火の山は、要塞構築時にコンクリートで固められ、地下にどのような遺構が眠っているかは確かめようがない。状況証拠はあるが物証に欠ける。ここだ! と言い切れないもどかしさを感じる。
火の山から望む関門の夜景
大唐櫃と茶臼の山並み
鬼ケ城山(619.6m)、竜王山(613.9m)説では対象となるエリアがガラッと変わる。長府に近いわけでもなく、付近に重要な役所や施設があったという記録もない。「長府防御」という戦術ではなく、より大きな列島防衛という戦略で見れば「なるほど」と思えるだろう。
下関市でも一二を争う高山の山頂に立つと、響灘を前面に、四王司山・勝山を背後に、ほぼ全方位の眺望が開けている。日本海を渡ってくる敵を発見し、狼煙などで長府にそれを知らせる。いち早く敵の動向を知ることが、防衛を有利にするのは火を見るより明らかである。
鬼ケ城山では標高300m付近に、何のために造られたか不明の石垣が見つかった(旧「豊田町史」より)とされるが、大野城と同じ様式のものかは正式に確認されていない。
現在は軽登山コースとして人気が高く、鬼ケ城山の山頂にはピッケルを模したモニュメントが建つ。隣の狩音山へ縦走するコースもあるが、狩音山も「かろうと=韓人」が転じた山名とされ、候補地の一つ。竜王山は、ワダツミ神(海神)を祀った龍王神社が登山口。いずれも往復3時間ほどで踏破できるが、ほどほどに険しく“楽しい”山道である。筆者が鬼ケ城山を登った日は大気がさえず、響灘は霞の中にとけ込んでいた。この山が長門城かどうか。その是非も茫洋として結論は出ていない。
3 長門城は2回建てられた?
これらの候補地を巡るのに、下関市内を縦横に車を走らせた。ハンドルを握りながら感じたのは、山の間を縫うように道が延びているということだ。鬼ケ城山へ竜王山連なる峰々は鋭く、県道244号線(この道沿いに両山の登山口はある)は連山が尽きるまで大きな道路と交錯しない。長府側に目を転じると、火の山から大唐櫃まで山は連なり海に迫る。四王司山・勝山からは大きく山が連なっている。長府は山によって閉ざされているという感覚である。
道路を走っているうちに「ここに水城のような堤防を築けば、敵をシャットアウトできるのに」と思える場所がいくつもあった。
日本書紀の記述では、665年(天智天皇4年)、670年(天智天皇9年)の各項目で長門城を築いたとある。2回にわたって同じ城を工事したともとらえられるが、2ヶ所に築いたと読むこともできる。
長門国府を守るための築城という固定観念を外して、2ヶ所に築城されたと仮定する。その上で地形を眺め、実際に現地を訪れてみると、次のようなイメージが抱けるかもしれない。
仮に長府にあった長門国府の機能を、竜王〜狩音連山と四王司〜六万坊連山に挟まれた県道34号線が走る盆地(冒頭の地図を参照)に移動させ、両端を水城のような堤防で塞ぐ。響灘を望む鬼ケ城山か竜王山に一城、逆に周防灘をにらむ四王司山・勝山・大唐櫃山に一城を築けば、両岸を警戒しつつ、連絡がしやすい鉄壁の陣ができる。実際には、下関市内に水城のような遺構はないが、防衛計画はあった可能性はある。
水城・大野城も博多の沿岸部にあった施設を防衛に最適な内陸部に移し、その上で建造されたのだ。都を奈良から防衛に最適な大津に遷した天智天皇なら、このように考えた、かもしれない。長門国府を守る、という目的にこだわった戦略である。
一方で関門海峡から周防灘にかけたラインで近畿に迫る敵を殲滅するために、火の山から大唐櫃山・茶臼山・四王司山から2ヶ所に城を築く、という戦略もあり得るのではないか。大宰府を落とした敵との第2ラウンドだ。この地で合戦となった場合、長門国府が最前線で指揮を執る。「都を守る」という目的を最優先するならば、敵をとどめる防衛線は都から遠い方が安心だろう。
大規模な築城は2ヶ所だけで、とりで程度の柵(さく)や狼煙台などの施設は無数に造ったものの日本書紀には記録されなかった可能性もある。大野城市や基山町にも、書記には細かく記載されていない「小水城」と呼ばれる堤防跡が残っている。今日候補地とされているところ全てに、何らかの施設が造られていたか、造ろうという計画はあったかもしれない。水城や大野城、基肄城、小水城全てが一つの拠点だと考えられるのと同様に、響灘、関門海峡、周防灘すべての面に備える壮大な防衛構想があったのではないか…。
2回目の築城がなされた2年後の672年初頭、天智天皇は崩御された。国内は乱れ同年に壬申の乱が起き、天武天皇が即位した。その後唐・新羅軍に備えた防衛網を構築した記録はない。長門城構想は天智朝の終末とともに、歴史から姿を消した。謎は謎のまま残された。新たな発見があるまで、空想する楽しさも残った。
響灘、関門海峡、周防灘。性格が異なる三つの海に囲まれた長門の国。源平合戦や明治維新の時代の激動を告げてきた西の要所は、今や商業港として観光地として多くの人でにぎわっている。血なまぐさい話題は、歴史の中に封印したままでもいいのかもしれない。 (文責 高野龍也)
鬼ケ城山頂から遠く響灘が望める
龍王神社が竜王山の入口
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