2008年04月21日
1 防御ネットワークの起点金田城
玄界灘に浮かぶ対馬。南北に細長い島の北端から韓国釜山までわずか49・5kmの隔たりしかない。通称して“国境の島”と呼ばれている。
古代から現在にいたるまで、列島と半島のきずなを結ぶ島として対馬の存在意義は大きい。多くの人、文物がこの島を中継して交流した。が、それは東アジアが平和であるという条件のもと。ひとたびこの地域に動乱のきな臭い空気が流れると、対馬は真っ先に戦火が飛び火する最前線の島となる。
7世紀もそうだった。唐・新羅連合軍が660年百済を滅ぼすと、飛鳥の朝廷は百済の遺臣とともに兵を挙げた。朝鮮半島の西岸を主戦場にした白村江の戦い(663年)で朝廷の軍は大敗。大帝国の侵攻に備え、水城・大野城・基肄城(きいじょう)を築き、都を奈良から近江へと遷すなど、国土防衛に向けて列島改造がなされた。
その中で、もっとも最初に手を打たれたのは半島に最も近い対馬である。白村江の戦いの翌年には、対馬・壱岐に防人と烽(とぶひ)を置いた。防人は守備兵で、烽は狼煙で敵の襲来を告げる通信施設である。狼煙は壱岐を経由して南へ、つまり大宰府へと伝達される。
そして667年には本格的な防御拠点として、金田城(かねたのき)が造営された。
遺構は主に城山の南東側に集中
金田城は、対馬上島と下島の間西側にある浅茅(あそう)湾の南側に突き出た城山(美津島町黒瀬)に残る。浅茅湾は、リアス式海岸の静かな入り江で、大陸から戻る遣唐使船も寄港するなど、古代から天然の良港として知られている。
付近の美津島町の「鶏知(けち)」には前方後円墳が集中しており、古代には有力な豪族が治める対馬の中心地であったことを物語っている。
島の中心地防衛を視野に入れつつ、浅茅湾から朝鮮半島もにらむ金田城は大宰府防御および国土防衛ネットワークの起点として重要な役割を担っていた。
2 国指定特別史跡・金田城を歩く
金田城は山頂を中心に、高さ2~5mの石垣や石塁が構築されている。特に目立つのは山の南東側中腹で、およそ3kmにわたり石の構造物が続く。一方、山の北側は断崖絶壁が海に突き出す天然の要害になっている。地形を利用して、“穴”を国「物で防ぎ死角をなくす。設計思想は、大野城や基肄城と同じである。特徴的なのは、構造物が石造である比率がとても高いこと。対馬の山は岩山が多く、材料にこと欠かなかったためであろう。
城山は1982年に「国特別指定史跡・金田城跡」に指定された。
現在も調査・保全と公園としての整備が同時進行で行われているが、登山道を歩いて史跡見学が可能だ。登山道は石垣や石塁に沿う形で山を一周しているため、つぶさに遺構を見ることができる。
スタート地点の登り口からは、ゆるやかな傾斜の整備された山道が続く。この道は明治時代、城山山頂に砲台が築かれたとき、建設物資および軍需物資を運ぶために整備された。
城山に限らず、対馬の山々の山頂には数多くの砲台が設置された。状況としては、7世紀も20世紀初頭もほぼ同じだったということだ。きな臭い空気が広がると、対馬島は物騒な装いに身を包まなければならない。
金田城跡で、最初に目にする大規模な遺構は「東南角石塁」だ。ここでは、建物の柱の根元を土に埋めた掘立て柱遺構が発見された。石垣の向こうに藍色の入り江がまぶしく、ハッと心を奪われだろう。ここから道は二手に分かれ、西へ向かうと山頂、逆に向かうと遺構が集中する。今回は山頂方面へと向かうことにした。
東南角石塁からの眺め
城山山頂からの浅茅湾の眺望
分かれ道から30分ほど歩くと、ベトンで固められた砲台跡に到着した。そこから5分ほど登ると山頂である。眼下には、上島・下島両側から伸びた半島が抱くように切り取られた浅茅湾が一望できる。冬季空気が澄んだ早朝は朝鮮半島も見える。白村江の戦い後築かれた烽(とぶひ)も山頂にあったとされるが、構造物は残っていない。
浅茅湾は半島へ離着する船出の港である。浅茅湾から陸に上がり、島の東側にある三浦湾から九州方面との往来に使われていた。狼煙による通信のほかに、早船による伝令も準備は季節によっては、あったはずだ。
水平線の向こうから、軍船の群れが現れた…。山頂に立ちその光景を想像すると、何とも切ない気持ちになる。狼煙による伝達は想像以上に早いというが、それでも友軍が駆けつける時間はないだろう。緊急連絡は、危急を告げるだけで救援依頼ではないのだ。切立った断崖はたやすくは陥落しないとは思えるが、最初から孤立無援の戦いである。当時東国から配置された防人たちは一様に、意を決してこの地に赴いた。その悲壮な気持ちは万葉集にも詠まれている。
3 遺構の集中する南東側へ
山頂から「一ノ城戸」へ向かう。深い谷を防ぎ、城門を設けたこの石垣を「城戸」と呼び習わしている。スリリングな “山道”を注意深く上り下るところどころで視界が開ける。そこには城山の東対岸にある、40mの石英斑岩の絶壁「鋸割(のこわき)岩」が屹立する。
一ノ城戸は張り出した石垣で、見張りが配置された場所だと考えられている。水を通す水門などの遺構も残る。一の城戸からさらに海岸に下ると、大吉戸神社と船着き場がある。水面は静かで、ここが古代から近代まで軍事の要であったとは信じられないほどだ。
二ノ城戸には、門扉の礎石がある。このとき二ノ城戸は修復作業中だった。この城戸に限らず、雨による土砂、風雪による劣化、イノシシの土壌掘り起こしなど、さまざまな要因で遺跡は日々痛んでいる。だがそれを差し引いても千年以上も前に組まれた石組みが今もなお健在なのだ。古代の技術の高さに感じ入るばかりである。
二ノ城戸から通称「ビングシ山」という小高い丘に道が通じる。ここには3棟分の建物跡(防人の住居跡と推定)、門の礎石がある。現在は休憩用の柱の間隔を礎石に合わせた東屋と音声ガイドの機械が設置されている。続いて城内で最も大規模な石垣である三ノ城戸へ。門跡や水門が見つかったほか、各城戸へ通じる山道もあることから、城の中心的機能はここだと推定されている。
登山道は遺構を見学できるのはもちろん、奇観、景勝、眺望、森林、紺碧の海と目まぐるしく風景が変わる。山道も適度なアップダウンで、道程2時間半はいい汗がかける。つまりトレッキングコースとしても最適というわけだ。
また、海から史跡を巡るシーカヤックツアーなどを主催している会社もある。浅茅湾から城山を見上げると、まさに海に浮かぶ要塞。唐新羅連合軍の船団が仮に対馬に攻め寄せてきたら、こんな感慨を持ったことだろう。海山両面から楽しめるのも、金田城の特徴だ。
4 結び
5回にわたり、7世紀の東アジア情勢に起因して建造された巨大遺構を巡った。実際に白村江で矛を交えた結果の緊迫したムードとはいえ、それも「交流」の一つの結果と言えなくもない。ともあれ、後に「遠の朝廷」と呼ばれ、西国の政治・文化の中心となった大宰府の礎はこのときにできたことは間違いない。
今回巡った1300年前の軍事施設は現在、それぞれに登山客や観光客に憩いの場として親しまれている。刻々と変わる世界情勢は一口に“平和”とはいえない昨今、クニを守ろうと造られた遺構を訪れ、そこに駐屯した防人たちに思いを馳せてみるのも、歴史探訪の一つのテーマではないだろうか。
太宰府防御ネットワーク(完)(文責 高野龍也)
一ノ城戸の石垣
ビングシ山の東屋
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