The Road to DAZAIFU ~大宰府への道~

2008年12月16日

歴史の道・時の扉 かげろうの古代日向 その3(宮崎県西都市)

3.歴史と神話の符合 ~西都原古墳群の主たち

●男狭穂塚・女狭穂塚
 西都原古墳群の象徴的な古墳。男狭穂(おさほ)塚は長さ175mで、直径132mの大きな円に小さな方形の墳丘がくっついた帆立貝式古墳という形。一方女狭穂(めさほ)塚は、九州最大級の前方後円墳で長さ180m。両者とも宮内庁陵墓参考地(男狭穂塚はニニギノミコト、女狭穂塚はコノハナノサクヤヒメ)に指定されているため、厳密にいうと特別史跡ではない。公園として整備されてもおらず鎮守の森のような木立の中に隠れていて、全容は見えない。当然、中に入ることもできない。
 夫婦が寄り添うように築造されていることもあって、この墳墓は“天孫降臨”してきたニニギノミコトとその妻コノハナノサクヤヒメが眠っていると信じられてきた。
 記紀神話では、高千穂峯に降りてきたニニギノミコトが、美しいコノハナノサクヤヒメを見染め、山幸海幸を生んだ。山幸の孫に当たるのが神武天皇だ。西都市にはニニギノミコトとコノハナノサクヤヒメの出会いの地、二人が暮らした宮殿、山幸海幸の生誕地という都万神社など、日向神話の伝承地が数多く残る。西都市は神話の里でもあるのだ。

西都原考古博物館

西都原考古博物館

●髪長姫と諸県君牛諸井
 さて男狭穂塚・女狭穂塚の本当の主は誰なんだろう?
「仁徳天皇の妃となった髪長姫と、その父である諸県君牛諸井(もろかたのきみうしもろい)ではないか」と仮説を立てているのは西都原考古博物館の北郷(ほんごう)泰道氏である。
夫婦ではないが、父娘という間柄も緊密なもの。当時女性は、生まれ故郷に埋葬されるという風習があったという。仁徳天皇は実在が疑問視されている天皇ではあるが、在位したという年代と両墓が築造された5世紀前半とぴたりと合う。言い伝えでは、日向から都にやってきた髪長姫は絶世の美女で、仁徳天皇は一目ぼれしてすぐに結婚を決めた。仁徳天皇と姫は二人の息子をもうけ幸せに暮らしたという。 神話と史実を同一視することはいけないが、神話になんらかの史実が投影されている場合もある。天皇家に日向系の血筋が入っていること、絶世の美女と王者の出会い。日向神話と記紀の記述がオーバーラップする。
日向地方は古代列島の何らかの鍵を握るパワーがあった場所なのかも、というのは想像をふくらませすぎだろうか。

鬼の窟遺跡は祭壇のよう

鬼の窟遺跡は祭壇のよう

列島全体に多大な影響力を持ったであろう西都原古墳群の主たち、その事跡は現在のところわれわれの目には映らない。が、彼らの権勢のほどは史跡公園の中に残る古墳や施設で垣間見ることができる。代表的な古墳としては大正時代に発掘された姫塚古墳(6世紀ごろ築造)、独特の地下室の遺構にドームをかぶせた西都原古墳群遺構保存覆屋、最大級の玄室を誇る4号地下室横穴墓など、外から中から古代世界を満喫できる。 日向地方最後の首長とされる人物は、土塁に囲まれた日本唯一の円墳鬼の窟古墳に埋葬された。祭壇のような雰囲気を漂わせるこの古墳が、3世紀から7世紀にわたって築かれた西都原文化圏の終焉なのだろうか。

開けた大地に、無数に点在する大小の古墳。秘められた歴史の深さのためか、その風景は神秘的でさえある。と同時に、のびのびと開放的な気分にもなる。さまざまな地域や国と交流した古代日向を担った人々のオープンな気質が、見て取れるからだろう。その背景が立ち上るこの景色は、細長い日本列島でもここでしか見ることができない。西都原古墳群は消えつつある“日本文化の多様性”が色濃く残っている。「見る」「学ぶ」前に、足を運んで体感すべき、史跡なのだ。

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