The Road to DAZAIFU ~大宰府への道~

2010年07月06日

歴史の道・時の扉 日本交流史のフロンティア・平戸 その2(長崎県平戸市)

2.中世の平戸

●禅と茶発祥の地 

旧石器時代から平安時代を駆け足で巡った。
この項では中世・鎌倉時代の平戸を訪れてみたい。

鎌倉時代は日本史上、エポックとされている時代だ。中でも鎌倉仏教と呼ばれる宗教ムーブメントは、伝統的な日本文化や宗教観など現代にまで深い影響を与えた。特に禅宗(臨済宗、曹洞宗)の伝来は、後の「茶の湯」など伝統文化のバックグラウンドとなった。

平戸は禅宗発祥の地、といわれているのはご存知だろうか。
平戸市街地から車で10分ほど走った木挽町の千光寺「冨春庵跡」がある。この冨春庵は、宋で禅宗を修め、臨済宗の開祖となった栄西が日本で初めて禅規を行った場所、といわれている。
栄西はこれまでの仏教に疑問を抱き、二度目の入宋で臨済禅を継承した。1191年、宋から帰国した際、平戸の木挽町に立ち寄った。禅宗は旧来の仏教界から排斥され、栄西は肥前肥後などで教えを広めた。同時に、勃興する武士階級、とくに幕府開幕後は鎌倉と接近して禅宗の確立を急いだ。
平戸は栄西の布教活動の前期において、重要な拠点の一つだった。

また栄西は、中国から茶の実(種)を持ち帰り、本格的に日本に喫茶の風習を導入した人物ともいわれている。冨春庵の裏山に栄西は、中国から持ち帰った茶の種を蒔き、喫茶の作法や抹茶の製法なども伝えたという。現在は「冨春園」として、茶畑が再現されているが、その規模はさほど大きくない。
この時代、茶は薬の一種と考えられ、庶民の口に入るものではなかった。その後、安土桃山時代に茶の湯が大成され、喫茶の風習が広がっていく。現在は全国に茶畑が営まれ、ペットボトル飲料として飲まれるほど、お茶が日常生活に浸透している。
800年前に営まれたこの小さな茶畑から、お茶文化のビックバンがはじまったわけだ。

江戸時代初期、初代平戸藩主松浦鎮信は、茶の湯を極めて鎮信流という茶道の流派を創設する。冨春園以来、茶文化が脈々と平戸で継承されていたのだろう。

日本初の茶畑といわれる冨春園

日本初の茶畑といわれる冨春園

冨春庵栄西の座禅石

冨春庵栄西の座禅石

日本列島において、禅宗とお茶の初期のパトロンとなったのは、松浦党だった。
平安時代に下向してきた嵯峨源氏の流れをくむ松浦氏を旗頭に、佐賀県唐津市から長崎県佐世保市までの西九州、五島や壱岐など広範囲に諸派30以上の武士団の緩やかな連合体のことだ。別名、松浦水軍ともいう。
松浦党は、船を出して物資を運搬する、貿易の実務作業に従事していた。自ら交易をはじめ、その荷を守るために武装化する。武力でもって、海の通行料を徴収し、時には海賊行為をするなどして、次第に実力をたくわえていった。
当初、平氏の家人だったが壇ノ浦の戦いで、源氏方につき鎌倉幕府の御家人となる。鎌倉時代の大事件といえば「元寇」であるが、元寇において松浦党は活躍する。

●蒙古軍の石錨(せきびょう)

平戸市役所のそばに幸橋(国指定文化財)という、優美な石のアーチ橋がある。元禄時代に架けられたものだが、オランダ人から学んだ技術を継承した、と言い伝えが残る。平戸の交流史を彩る遺跡だ。
幸橋のたもとに、金属製のオランダ古錨(こびょう)と石錨が展示されている。

石錨は蒙古軍船が使っていたもの、とされる。志々伎の宮ノ浦から引上げられた。福岡では、筥崎宮(福岡市東区)や櫛田神社(福岡市博多区)に同型の蒙古軍の石錨が奉納されている。

唐・新羅連合軍の侵攻に備え、志々伎を防衛拠点化したと先の項で紹介した。
志々伎で蒙古軍との大規模な戦闘があったのは間違いないだろう。
8世紀には、唐・新羅軍は攻めてこなかったが、「志々伎を前線基地とする」という大和政権の戦略の正しさが、蒙古軍襲来によって証明された形だ。

2度の襲来のうち文永の役(1274年)では、対馬・壱岐・平戸・鷹島といった松浦党の根拠地がほぼ全滅、という凄惨な戦いを強いられた。
弘安の役(1281年)でも、五島・壱岐・平戸で激戦が繰り広げられる。2度の襲来は、いずれも台風(神風)によって退けられた、という伝説だけが語り継がれているが、我が領内に敵国が攻めてくる松浦党の活躍も大きかった、ということは忘れてはならない。

蒙古軍の石錨の横にあるオランダ古錨は大小2種あり、大は昭和27(1952)年に、小は昭和31(1956)年に引上げられたもの。また、すぐそばにはイギリス商館跡の石碑もある。

優美なアーチ橋幸橋

優美なアーチ橋幸橋

オランダ古錨と蒙古石錨(手前)

オランダ古錨と蒙古石錨(手前)

戦争というマイナスの交流もあったが、平安時代から戦国時代にかけて中国とのルートは恒常的にあった。元寇以後は、中国、朝鮮では悪名が高い“倭冦”という形で荒っぽい交流も仕掛けたものの、松浦地方は、大陸との交流のフロンティアであり続けた。
海運の拠点は平戸港にあり、貿易による利益によって松浦党の中でも平戸松浦氏が次第に頭角を表すことになる。

戦国時代に平戸は城郭、城下町、港が整備された、中国船が来航する本格的な国際都市に発展した。戦国時代の後期には、中国の海商・王直と手を結ぶと、さらに中国貿易の富が集中し、鉄砲などの最新兵器を導入し、平戸松浦氏の勢力は膨張していく。

そんな中ポルトガル船が平戸に入港する。

(3.大航海時代の平戸 へ続く)

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