The Road to DAZAIFU ~大宰府への道~

2010年12月07日

歴史の道・時の扉 日本交流史のフロンティア・平戸 その3(長崎県平戸市)

3.大航海時代の城下町

●西洋諸国とのつながり

 平戸島と九州を分つ“平戸瀬戸”に架かる平戸大橋。地図などで俯瞰してみると、赤い巨大な吊り橋の北の方に、西に向かって細長い入り江が伸びているのが分かる。平戸湾だ。
 入り江の尖端はさらに深くえぐれ、運河のような細い港の両岸に、世界地図にFirando(フィランド)と記された日本屈指の国際都市・平戸があった。

 実際に街を歩いてみるとよく分かるが、街としての規模はそれほど大きくない。海岸線に沿って、わずかな平地にひしめくように商店が並び、その向こうは土地が傾斜して丘陵地帯がそびえている。

 平戸港町の地形や海岸線は、江戸時代とさほど変わっていないという。
 約400年前、この地を訪れたポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、中国、朝鮮半島やアジアの諸国の人々が見た風景を発見できるかもしれない。
 平戸に残る大航海時代の痕跡を探る前に、国際都市平戸誕生のいきさつを早足で振り返ってみたい。

松浦隆信(道可)の像

松浦隆信(道可)の像

明の海商王直の像

明の海商王直の像

日本人と西洋の遭遇は、公式には種子島に鉄砲伝来(1543年)、キリスト教伝来(1549年)といわれている。
 それから約40年あまりを経た天文19(1590)年に、ポルトガル船が平戸港に錨を下ろした。南蛮船が平戸にやって来るまで40年かかったことも、そして平戸に入港したことにも理由はある。

 東アジアでいわゆる南蛮貿易が活発化したのは、ポルトガルが1557年にマカオの使用権を獲得した後である。当初は日本からマカオへ船を出し、そこでポルトガル・明国・日本の三国通商が行われた(朱印船貿易)。第三国を通しての貿易はいろいろとロスやデメリットが多い。明は海禁政策(交易制限政策)をとっていたこともあり、ポルトガルはキリスト教の布教という目的もあったため、日本との直接通商を探っていた。

●西の都とぞ申しける

 同じころ、戦国時代に力をたくわえた平戸松浦氏は、第25代当主松浦隆信(道可)の時代に勢いを増し、大陸での南蛮貿易をはじめた。貿易で得た財力と鉄砲や大砲という最新兵器を導入して、北松浦半島を制圧した。

 隆信は、明の海商・王直(五峰)とのパイプが強かった。王直は海禁政策下、博多など日本各地と密貿易を行っていた。本国を追われて五島に居を構えた王直を隆信は、城下町に招き寄せる(1542年)。
 平戸は王直の商売の拠点の一つとなり、彼はポルトガル船を平戸へ入港させた。そこで、隆信はポルトガルとの通商をむすび、自らの膝元を「大航海時代の城下町」へと発展させる礎を築いた。

 平戸藩史によると、城下町には世界各国のさまざまな人種と、日本中から集まった商人でごった返し、とくにオランダ商館が設置されてからは「『西の都』とぞ申しける」と呼べるほどの活況だったという。

 織豊政権から、江戸幕府へと国の体制が変動するが、いわゆる鎖国政策により寛永18(1641)年、長崎出島に外交の窓口が一本化されるまで、およそ100年間平戸は国際都市であり続けた。

英蘭国旗翻る松浦史料博物館

英蘭国旗翻る松浦史料博物館

平戸市市街地の歴史の小道

平戸市市街地の歴史の小道

 このような平戸のダイナミックな歴史を手軽に体感できるのが「歴史の道」だ。
 平戸港交流広場から松浦史料博物館へ伸びる数百メートルの道沿いに、国際都市Firandoを訪れたキーマンのブロンズ像が配されている。

 交流広場側から順に、初代平戸イギリス商館長のリチャード・コックス、初代平戸オランダ商館長のジャックス・スペックス、デ・リーフデ号の航海長ウィリアム・アダムズ、宣教師フランシスコ・ザビエル、中国貿易商の王直と続き、松浦史料博物館のたもとに松浦家第25代領主の松浦隆信(道可)が大トリで控えている。

 歴史の道には平戸温泉の腕湯・足湯もあり、旅の疲れを癒しつつ、往時の平戸をしのぶことができる。

 松浦史料博物館には、南蛮渡来のお宝や貴重な資料が展示され、この町の栄華をかいま見ることができる。建物は明治26(1893)年に竣工した旧藩主の邸宅で、国の登録有形文化財でもある。

 詳しくは松浦史料博物館ホームページへ。

 ポルトガル・イスパニアとはじまった南蛮貿易だが、キリスト教布教と貿易がセットだった。列島各地の大都市では南蛮貿易の交易品が流通しだしたが、それ以上に民衆へキリスト教の教えが広がっていった。
 そのころヨーロッパでは、スペイン・ポルトガルの勢いにかげりが出始めていた。オランダはイスパニアから独立。また、アルマダの海戦でスペインの無敵艦隊が英国艦隊に撃破され、西・葡両国は制海権を失い、アジアとの貿易は英国・オランダが主役に躍り出していた。

 1600年には、オランダ船リーフデ号が大分に漂着。オランダ人ヤン・ヨーステン、イギリス人のウィリアム・アダムスが徳川家康に謁見したことが縁となって、慶長14(1609)年にオランダと、慶長18(1613)年にイギリスとの通商が許可されることになった。

 大航海時代による西洋文明の広がりと、統一によって安定していく列島情勢、そして平戸の地勢や海外交流史が重なった世界的なうねりの中で「大航海時代の城下町」と称される国際都市が形成されていった。もちろん、古代から日本史は世界史の一部であったが、本格的に世界史に登場したのは、この時代だっただろう。

 その時代が結晶化しているのが、平戸である。次回はオランダ商館関連の史跡を歩いて、近世平戸の景色を探したい。

(平戸その4へ続く。)

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